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日本近現代史 [放送大学]
さて、3科目目は日本近現代史。
日本政治外交史と一緒に履修したので、同じ時期を違う面から勉強できたし、効率も良かった。
これもまた最初からおもしろかった。
・ペリーの日本来航の意味は何か。実は世界の交通システムの革命。だから、イギリスのタイムスも逐一放送していたらしい。太平洋航路の完成によって、地球を一周する交通システムが完成した。その少し前にアメリカはメキシコとの戦争で西海岸を獲得して太平洋に達している。
・日本は植民地化される危険があったのか?これはなかったという見方。不平等条約を結ばされた、ということだが、曲がりなりにも条約を結ぶと言うことは主権を持つ統治機構を認めると言うことであって、そうであれば当時のルールでも植民地化することはできなかった。もっとも、植民地という言葉自体も曖昧だけど。
・戦前の選挙。政党政治が行われたというと聞こえが良いが、買収が横行。これでは行けないと言うことで選挙粛正運動が行われたが、それが情勢の変化から翼賛選挙につながっていく。でも、大政翼賛会というと戦時一色という感じがするけども、推薦者の当選は全体の82%で、投票率も83%。非推薦候補も当選しているし、投票率も100%にすることができなかった。
・映画。これは日本人の大変な娯楽で、1940年時点で、1人あたり1年に平均14回も映画を見ていた。戦後はGHQの統制があったが、戦前の検閲では通らなかった「接吻映画」が現れ、衝撃を与えた。
日本政治外交史と一緒に履修したので、同じ時期を違う面から勉強できたし、効率も良かった。
これもまた最初からおもしろかった。
・ペリーの日本来航の意味は何か。実は世界の交通システムの革命。だから、イギリスのタイムスも逐一放送していたらしい。太平洋航路の完成によって、地球を一周する交通システムが完成した。その少し前にアメリカはメキシコとの戦争で西海岸を獲得して太平洋に達している。
・日本は植民地化される危険があったのか?これはなかったという見方。不平等条約を結ばされた、ということだが、曲がりなりにも条約を結ぶと言うことは主権を持つ統治機構を認めると言うことであって、そうであれば当時のルールでも植民地化することはできなかった。もっとも、植民地という言葉自体も曖昧だけど。
・戦前の選挙。政党政治が行われたというと聞こえが良いが、買収が横行。これでは行けないと言うことで選挙粛正運動が行われたが、それが情勢の変化から翼賛選挙につながっていく。でも、大政翼賛会というと戦時一色という感じがするけども、推薦者の当選は全体の82%で、投票率も83%。非推薦候補も当選しているし、投票率も100%にすることができなかった。
・映画。これは日本人の大変な娯楽で、1940年時点で、1人あたり1年に平均14回も映画を見ていた。戦後はGHQの統制があったが、戦前の検閲では通らなかった「接吻映画」が現れ、衝撃を与えた。
日本政治外交史 [放送大学]
先週は放送大学の今学期の試験3科目集中日でしたが、2科目目は日本政治外交史。
論述で持ち込みなし、結構難しいかと緊張していましたが、結構書きやすいテーマで何とかなりました。多分。
この科目は明治憲法制定から小泉政権までの近現代を扱うものですが、歴史をなぞるのではなく、それぞれの政治家に焦点を当てて論じていく形式。人の名前を覚えられない私としてはちょっとそこが厳しいところ。
でも、明治憲法制定から日清戦争、日露戦争、太平洋戦争、戦後の体制作り、高度成長と流れていく歴史は、その前の歴史より身近に感じられます。
おもしろかったところを何点か。
・明治維新が起こってから、すぐに大日本帝国憲法が制定され、帝国議会も設けられたように思っていたが、実際には議会を開設するまでずっと藩閥政治という何だかよくわからない政治体制が続いていた。
・大日本帝国憲法では、現在の憲法のように議院内閣制ではないので、総理大臣をどうやって決めるか明確ではなく、元老が話し合って決めたり、何だかわからない決まり方をしていた。結局議会と話がつかないと進まないので政党政治が行われるようになった。何となく今の政治状況をイメージする。
・天皇。明治天皇は京都に愛着を持っていたようだが、昭和天皇は東京人。戦前は宮城から出ることもなかったが、戦後行幸するようになった。今のように植樹祭に出たりする象徴天皇のスタイルは、昭和天皇が確立した。そもそも何をするかなんて決まっていなかったのだから。
・司法。大日本帝国憲法では司法は司法省のもとにあった。戦後は三権の一つとして独立したが、立法や行政と違って独立した地位を固めるのは簡単ではなく、最初は裁判官の政治活動なんかがかなり問題になったこともあった。あと、天皇陛下が最高裁判所を訪問するというのが象徴的なマイルストーンになっているのが興味深い。
・地方自治。昔は都道府県知事って内務省の役人がやっていた。市長、町村長は選挙。なので、都道府県知事のほうが市長より平均年齢が若く、都道府県知事をやってから、市長選に出るというのが1つのパターンだったらしい。今もあるけど。
あと、市長と衆議院議員、都道府県知事と貴族院議員は兼職が可能だった。
論述で持ち込みなし、結構難しいかと緊張していましたが、結構書きやすいテーマで何とかなりました。多分。
この科目は明治憲法制定から小泉政権までの近現代を扱うものですが、歴史をなぞるのではなく、それぞれの政治家に焦点を当てて論じていく形式。人の名前を覚えられない私としてはちょっとそこが厳しいところ。
でも、明治憲法制定から日清戦争、日露戦争、太平洋戦争、戦後の体制作り、高度成長と流れていく歴史は、その前の歴史より身近に感じられます。
おもしろかったところを何点か。
・明治維新が起こってから、すぐに大日本帝国憲法が制定され、帝国議会も設けられたように思っていたが、実際には議会を開設するまでずっと藩閥政治という何だかよくわからない政治体制が続いていた。
・大日本帝国憲法では、現在の憲法のように議院内閣制ではないので、総理大臣をどうやって決めるか明確ではなく、元老が話し合って決めたり、何だかわからない決まり方をしていた。結局議会と話がつかないと進まないので政党政治が行われるようになった。何となく今の政治状況をイメージする。
・天皇。明治天皇は京都に愛着を持っていたようだが、昭和天皇は東京人。戦前は宮城から出ることもなかったが、戦後行幸するようになった。今のように植樹祭に出たりする象徴天皇のスタイルは、昭和天皇が確立した。そもそも何をするかなんて決まっていなかったのだから。
・司法。大日本帝国憲法では司法は司法省のもとにあった。戦後は三権の一つとして独立したが、立法や行政と違って独立した地位を固めるのは簡単ではなく、最初は裁判官の政治活動なんかがかなり問題になったこともあった。あと、天皇陛下が最高裁判所を訪問するというのが象徴的なマイルストーンになっているのが興味深い。
・地方自治。昔は都道府県知事って内務省の役人がやっていた。市長、町村長は選挙。なので、都道府県知事のほうが市長より平均年齢が若く、都道府県知事をやってから、市長選に出るというのが1つのパターンだったらしい。今もあるけど。
あと、市長と衆議院議員、都道府県知事と貴族院議員は兼職が可能だった。
北東アジアの歴史と朝鮮半島 [放送大学]
週末に今学期の放送大学の試験、3科目が終わりました。
二学期は仕事でばたばたするので、週末が試験の科目を選んだのは良いけど、1日に三科目はちょっと大変でした。
それも、前回あんなに反省したのに、また歴史ばかりにしてしまった。
最初の試験は、「北東アジアの歴史と朝鮮半島」で、これだけはマークシートの選択式で、例によって10問しかなかったので、時間的にはすぐに終わって退席できた。
さて、この科目は朝鮮半島の歴史ですが、名前の通り、北東アジア、具体的には中国、そして日本の歴史との関係を意識しながら説明になっています。
になる時代、そして日本に併合、戦後は南北に分割ということになるので、そんなにややこしいものではありません。
簡単に言えば、高句麗、新羅、百済が鼎立する古代、新羅が統一する時代、それに高麗が取って代わる時代、さらに朝鮮日本と朝鮮半島は同じように中国という超大国の周縁に位置しながら、歴史は随分と違いを感じます。
日本の歴史、中国の歴史をある程度勉強してから履修しましたが、これは正解だった。
いつも中国からの圧力に脅かされているというところや、その中国との関係によって、日本との関係が強まったり弱まったりするというのは、なんだかんだ言って海に囲まれていて孤立していた日本とは感覚が違います。
よく北朝鮮の外交を振り子外交なんて言いますが、過去の歴史のこうした事大主義、パワーバランスを見てみると、昔からそういうもんなんだなあ、と納得したりします。
改めて日中韓の歴史を勉強すると、列強との関係でどうしてこんなに違いがあるのかは本当に不思議です。
開国に至る経緯にしても、どの国も攘夷派のような意見もあれば、開国派のような意見もあります。
中国や朝鮮では、開国派の試みは頓挫してしまいます。
日本はうまくいった。違いは何なんだろうということです。
さあ、次は韓国旅行しないといけないな。
二学期は仕事でばたばたするので、週末が試験の科目を選んだのは良いけど、1日に三科目はちょっと大変でした。
それも、前回あんなに反省したのに、また歴史ばかりにしてしまった。
最初の試験は、「北東アジアの歴史と朝鮮半島」で、これだけはマークシートの選択式で、例によって10問しかなかったので、時間的にはすぐに終わって退席できた。
さて、この科目は朝鮮半島の歴史ですが、名前の通り、北東アジア、具体的には中国、そして日本の歴史との関係を意識しながら説明になっています。
になる時代、そして日本に併合、戦後は南北に分割ということになるので、そんなにややこしいものではありません。
簡単に言えば、高句麗、新羅、百済が鼎立する古代、新羅が統一する時代、それに高麗が取って代わる時代、さらに朝鮮日本と朝鮮半島は同じように中国という超大国の周縁に位置しながら、歴史は随分と違いを感じます。
日本の歴史、中国の歴史をある程度勉強してから履修しましたが、これは正解だった。
いつも中国からの圧力に脅かされているというところや、その中国との関係によって、日本との関係が強まったり弱まったりするというのは、なんだかんだ言って海に囲まれていて孤立していた日本とは感覚が違います。
よく北朝鮮の外交を振り子外交なんて言いますが、過去の歴史のこうした事大主義、パワーバランスを見てみると、昔からそういうもんなんだなあ、と納得したりします。
改めて日中韓の歴史を勉強すると、列強との関係でどうしてこんなに違いがあるのかは本当に不思議です。
開国に至る経緯にしても、どの国も攘夷派のような意見もあれば、開国派のような意見もあります。
中国や朝鮮では、開国派の試みは頓挫してしまいます。
日本はうまくいった。違いは何なんだろうということです。
さあ、次は韓国旅行しないといけないな。
南三陸町 [旅・出張]
ばたばたしていましたが、何とか冬休みに入り、今年最後の旅行として宮城県南三陸町に行ってきました。
東北にはどうしても年内に行って、自分の目で見ておきたいと思っていたので、1泊2日ですが、行けてとても良かった。
どこに行こうかと考えたのですが、ウェブを見ているうちに、南三陸町のホテルは通常営業していることを発見。
年末なのにかなり急に行き先を決めたので、新幹線はかなり満席。
行きの仙台まではやまびこ、しかもグリーン車。
いちいち駅に止まるし、そこで通過待ちになります。
仙台駅からは無料の送迎バスでホテルへ。
今回利用したのは「南三陸ホテル観洋」というホテルで、町から少し離れた眺めの良いところにありますが、
結構客室数が多い大型ホテルです。夕食付きのプランで豪勢に行きました。
http://www.mkanyo.jp/
ホテル自体が海に張り出すようにあるのですが、客室もすべて海に面していて、太平洋が望めます。
私たちが泊まった部屋からは、南三陸町の志津川の町が見えます。

一見普通の町のようですが、海の近くに大きながれきの山が見えます。

午後に到着して、まだ日没には時間があったので、ホテルの近くの集落を歩いて見ました。
何事もなかったように静かな冬でしたが、壊れた工場があり、小さな港まで行くと、
木に網らしきものがかかったままでした。被害はあったものの、かなり整理がされているようです。
あと、なぜか、「P.R.CHINA」と書かれた中国のテントらしきものが所々にありました。


ホテルに戻り、海を臨む露天風呂。ちょっと雨がぱらつく天気で、星が見えなかったのが残念。
誰のせいでしょう。
その次は、夕食でスパーク。
鮑の踊り焼きとウニがメインなのですが、他にもカニやら刺身やら、茶碗蒸しに炊き込みご飯と相当な量がありました。
全部食べたけど。
最初はビールを頼んだのですが、刺身を見た途端に日本酒を頼みました。

鮑。これまでも食べたことはありますし、金沢でも踊り焼きを食べた気がしますが、おいしかった。
よく刺身で出てくると、こりこりと固いですが、焼くととても柔らかい。
バターとレモンをかけて食べるのがまたおいしいのですが、身の下に肝があって、ちょっと苦みがあるやつを
日本酒を飲みながら食べるのはたまらないですね。

最後はデザートまで。結構大食いな方ですが、かなりお腹いっぱいになりましたし、べろんべろんに酔っぱらってしまい、
部屋に戻って少し飲んだもののすぐに寝てしまいました。

翌朝は早起きして、露天風呂で日の出を見ようと試みましたが、水平線附近が曇っていてよく見えない。
でも、風呂を上がってから少しの間、雲が移動し、きれいな朝日が見られました。
その後はまた雪がぱらつく天気になってしまったので、良いタイミングでした。

朝食後は、チェックアウトして、自転車を借りて、町まで行ってみましたが、すごかった。
震災から9か月以上経ち、随分と片付けられています。がれきも種類別に積み上げられています。
でも、残った建物は無残に壊れていて、ゴーストタウンのようです。
海に近い病院は、特に低層階の窓が破れ、鉄筋部分、コンクリート部分も壊れている部分があります。
多くの人が亡くなったのでしょう、入口には小さな台が置かれ、花やいろいろなお供え物がされていました。


有名になってしまった防災対策庁舎もありました。今は無残な鉄骨しか残っていません。
ここでもたくさんの方が亡くなったようです。この庁舎で避難を呼びかけ続けた町職員の遠藤未希さんも亡くなりました。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110503/dst11050300110000-n1.htm
入口にはやはり台が置かれ、花や折り紙の鶴などが備えられていました。
今でもたびたび足を運んでいる人がいるのでしょう、新しいものも目につきます。
5月に飾ったと思われる鯉のぼりがあったり、「おかあさん、ありがとう」といったメッセージがあり、胸をつかれました。

町の奥には気仙沼線の志津川駅がありました。
駅舎は流されてしまい、今はホームしかありません。線路も撤去されてしまっています。
再建を諦めて、バス路線にするという話も出ているようです。

ここから町を一望できますが、まるで町全体が工事現場のようです。
典型的なリアス海岸の地形だと思いますが、町があった平地は狭いものの極めて平坦で高低差がなく、
津波が一気に洗ってしまったのでしょう。

さて、ホテルに戻ってからは、昼食にイクラ丼を食べました。
ごはんになかなかたどり着けないほど、イクラが大量に載っていて最高でした。

お昼にホテルを出て、帰りは鉄道で。
気仙沼線で運行されている駅の柳津まで行き、仙台まで行って新幹線で帰りました。
乗り換えた仙台駅で、震災関連の本を買い、車内で読みました。
「南三陸から2011.3.11~2011.9.11」
震災の写真も、私が見たよりも生々しく、現在はかなり片付けられていることが分かります。
そして、何より、震災前の美しい町の写真が印象に残りました。この風景はもう見ることができません。
人々、特に子どもの明るい表情が救いです。
短い旅行でしたが、今年の最後にふさわしい、充実したものでした。
これを機会に、南三陸町の今後を見ていきたいです。
また違う季節に訪れてみたいです。
東北にはどうしても年内に行って、自分の目で見ておきたいと思っていたので、1泊2日ですが、行けてとても良かった。
どこに行こうかと考えたのですが、ウェブを見ているうちに、南三陸町のホテルは通常営業していることを発見。
年末なのにかなり急に行き先を決めたので、新幹線はかなり満席。
行きの仙台まではやまびこ、しかもグリーン車。
いちいち駅に止まるし、そこで通過待ちになります。
仙台駅からは無料の送迎バスでホテルへ。
今回利用したのは「南三陸ホテル観洋」というホテルで、町から少し離れた眺めの良いところにありますが、
結構客室数が多い大型ホテルです。夕食付きのプランで豪勢に行きました。
http://www.mkanyo.jp/
ホテル自体が海に張り出すようにあるのですが、客室もすべて海に面していて、太平洋が望めます。
私たちが泊まった部屋からは、南三陸町の志津川の町が見えます。

一見普通の町のようですが、海の近くに大きながれきの山が見えます。

午後に到着して、まだ日没には時間があったので、ホテルの近くの集落を歩いて見ました。
何事もなかったように静かな冬でしたが、壊れた工場があり、小さな港まで行くと、
木に網らしきものがかかったままでした。被害はあったものの、かなり整理がされているようです。
あと、なぜか、「P.R.CHINA」と書かれた中国のテントらしきものが所々にありました。


ホテルに戻り、海を臨む露天風呂。ちょっと雨がぱらつく天気で、星が見えなかったのが残念。
誰のせいでしょう。
その次は、夕食でスパーク。
鮑の踊り焼きとウニがメインなのですが、他にもカニやら刺身やら、茶碗蒸しに炊き込みご飯と相当な量がありました。
全部食べたけど。
最初はビールを頼んだのですが、刺身を見た途端に日本酒を頼みました。

鮑。これまでも食べたことはありますし、金沢でも踊り焼きを食べた気がしますが、おいしかった。
よく刺身で出てくると、こりこりと固いですが、焼くととても柔らかい。
バターとレモンをかけて食べるのがまたおいしいのですが、身の下に肝があって、ちょっと苦みがあるやつを
日本酒を飲みながら食べるのはたまらないですね。

最後はデザートまで。結構大食いな方ですが、かなりお腹いっぱいになりましたし、べろんべろんに酔っぱらってしまい、
部屋に戻って少し飲んだもののすぐに寝てしまいました。

翌朝は早起きして、露天風呂で日の出を見ようと試みましたが、水平線附近が曇っていてよく見えない。
でも、風呂を上がってから少しの間、雲が移動し、きれいな朝日が見られました。
その後はまた雪がぱらつく天気になってしまったので、良いタイミングでした。

朝食後は、チェックアウトして、自転車を借りて、町まで行ってみましたが、すごかった。
震災から9か月以上経ち、随分と片付けられています。がれきも種類別に積み上げられています。
でも、残った建物は無残に壊れていて、ゴーストタウンのようです。
海に近い病院は、特に低層階の窓が破れ、鉄筋部分、コンクリート部分も壊れている部分があります。
多くの人が亡くなったのでしょう、入口には小さな台が置かれ、花やいろいろなお供え物がされていました。


有名になってしまった防災対策庁舎もありました。今は無残な鉄骨しか残っていません。
ここでもたくさんの方が亡くなったようです。この庁舎で避難を呼びかけ続けた町職員の遠藤未希さんも亡くなりました。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110503/dst11050300110000-n1.htm
入口にはやはり台が置かれ、花や折り紙の鶴などが備えられていました。
今でもたびたび足を運んでいる人がいるのでしょう、新しいものも目につきます。
5月に飾ったと思われる鯉のぼりがあったり、「おかあさん、ありがとう」といったメッセージがあり、胸をつかれました。

町の奥には気仙沼線の志津川駅がありました。
駅舎は流されてしまい、今はホームしかありません。線路も撤去されてしまっています。
再建を諦めて、バス路線にするという話も出ているようです。

ここから町を一望できますが、まるで町全体が工事現場のようです。
典型的なリアス海岸の地形だと思いますが、町があった平地は狭いものの極めて平坦で高低差がなく、
津波が一気に洗ってしまったのでしょう。

さて、ホテルに戻ってからは、昼食にイクラ丼を食べました。
ごはんになかなかたどり着けないほど、イクラが大量に載っていて最高でした。

お昼にホテルを出て、帰りは鉄道で。
気仙沼線で運行されている駅の柳津まで行き、仙台まで行って新幹線で帰りました。
乗り換えた仙台駅で、震災関連の本を買い、車内で読みました。
「南三陸から2011.3.11~2011.9.11」
震災の写真も、私が見たよりも生々しく、現在はかなり片付けられていることが分かります。
そして、何より、震災前の美しい町の写真が印象に残りました。この風景はもう見ることができません。
人々、特に子どもの明るい表情が救いです。
短い旅行でしたが、今年の最後にふさわしい、充実したものでした。
これを機会に、南三陸町の今後を見ていきたいです。
また違う季節に訪れてみたいです。
ウズベキスタンの桜 [日常]
中山恭子「ウズベキスタンの桜」を読み終わった。
海外旅行の話をしていると、よく「行った中でどこが一番良かった?」という質問をされて、いつもどう答えて良いか分からずにもごもごとしてしまうのですが、ウズベキスタンは候補の1つ。
この本はウズベキスタン大使となった中山恭子さんの滞在記、という形式をとっていて、そうした部分はもちろんあるのだけども、豊富な写真でウズベキスタンの経済、文化を解説して、まるでウズベキスタンの紹介本のようになっている。
任地へのひいきというのもあるのだとは思いますが、ウズベキスタン大絶賛という感じ。
独裁者との批判もあるカリモフ大統領は良い人として紹介され、民営化が遅れている経済政策も斬新主義として評価している。
行ったこともあるし勉強もしていたので知っていることも多かったけども、読んでいたらまたウズベキスタンに行きたくなってきた。中山さんもウズベキスタン人に対して高い評価を与えているけども、私も実際に行ってみて、エキゾチックな民族衣装や世界遺産の遺跡だけではなく、人々に強い印象を受けた。
経済的には明らかに貧しい国なのに、なんだか親切で素朴なんですよね。
たまたま通りがかった日本人を大歓迎して賑やかに一緒に写真をとったおばちゃんとか、言葉も通じないのにお茶をしているところに招き入れてくれたおじさん達、明るく好奇心いっぱいの若者達や、きらきらと目を輝かせながらくっついて歩いてきた小さな女の子とか、みんなどうしているのかな。
ウズベキスタンの人は家族を大事にする人達で、話し始めるとすぐに家族について聞いてくる。
スザニを売っているおばさんとも、同い年だねえ、なんて良いながらずいぶん話したな。
独身だと話すと、今度はここに、結婚して子どもを連れて来るのよ、と言われた。いや、簡単じゃないんだってば。
さて、本について言えば、日本人墓地の話が印象的だった。
ソ連の抑留によってウズベキスタンでも多くの日本人が連行され、命を落としたのですが、勤勉な日本人の働きぶりを現地の人はよく覚えていてくれて、荒れ果てた日本人墓地を整備しようという話が持ち上がったとき、ウズベキスタン側が積極的に整備してくれたとのこと。
抑留者が建設したナヴァイー劇場は、地震でも倒壊しなかった、日本人が造った建物として現地の人にも知られているそうです。
http://www.takayas.jp/travel/countries/uzbekistan/uzbekistan_399.jpg
海外旅行の話をしていると、よく「行った中でどこが一番良かった?」という質問をされて、いつもどう答えて良いか分からずにもごもごとしてしまうのですが、ウズベキスタンは候補の1つ。
この本はウズベキスタン大使となった中山恭子さんの滞在記、という形式をとっていて、そうした部分はもちろんあるのだけども、豊富な写真でウズベキスタンの経済、文化を解説して、まるでウズベキスタンの紹介本のようになっている。
任地へのひいきというのもあるのだとは思いますが、ウズベキスタン大絶賛という感じ。
独裁者との批判もあるカリモフ大統領は良い人として紹介され、民営化が遅れている経済政策も斬新主義として評価している。
行ったこともあるし勉強もしていたので知っていることも多かったけども、読んでいたらまたウズベキスタンに行きたくなってきた。中山さんもウズベキスタン人に対して高い評価を与えているけども、私も実際に行ってみて、エキゾチックな民族衣装や世界遺産の遺跡だけではなく、人々に強い印象を受けた。
経済的には明らかに貧しい国なのに、なんだか親切で素朴なんですよね。
たまたま通りがかった日本人を大歓迎して賑やかに一緒に写真をとったおばちゃんとか、言葉も通じないのにお茶をしているところに招き入れてくれたおじさん達、明るく好奇心いっぱいの若者達や、きらきらと目を輝かせながらくっついて歩いてきた小さな女の子とか、みんなどうしているのかな。
ウズベキスタンの人は家族を大事にする人達で、話し始めるとすぐに家族について聞いてくる。
スザニを売っているおばさんとも、同い年だねえ、なんて良いながらずいぶん話したな。
独身だと話すと、今度はここに、結婚して子どもを連れて来るのよ、と言われた。いや、簡単じゃないんだってば。
さて、本について言えば、日本人墓地の話が印象的だった。
ソ連の抑留によってウズベキスタンでも多くの日本人が連行され、命を落としたのですが、勤勉な日本人の働きぶりを現地の人はよく覚えていてくれて、荒れ果てた日本人墓地を整備しようという話が持ち上がったとき、ウズベキスタン側が積極的に整備してくれたとのこと。
抑留者が建設したナヴァイー劇場は、地震でも倒壊しなかった、日本人が造った建物として現地の人にも知られているそうです。
http://www.takayas.jp/travel/countries/uzbekistan/uzbekistan_399.jpg
新学期(平成23年度2学期) [放送大学]
会社員としても会計期が代わって新しい期ですが、学生としても夏休みが終わって、10月から新学期です。
このところばたばたしていましたが、また週末は勉強する生活に。
今学期は、「日本近現代史」、「日本政治外交史」、「北東アジアの歴史と朝鮮半島」の3科目。
前学期に大変でもうやめようと思ったのに、また歴史ばかりになってしまいました。
でも、日本史は古代からやってきて、世界史も地中海、中央アジア、中国と来て朝鮮半島まで来ました。
「日本近現代史」の最初はペリー来航の話で、日本は欧米列強に植民地化される危機にあったのではないかという見方に対して、2つの点から疑義を唱えている。
1つは欧米列強にとっては生産力に見合った市場や通商が目的であって、日本を植民地化することが目的ではないということ。日本の開港は、直前にカリフォルニアを手中にしたアメリカからアジアへの太平洋航路という世界をつなぐ最後の環の完成に意味があったという説。
もう1つは、不平等とはいえ条約を結ぶことによって、主権国家として認たことになるので、植民地化を容易にしにくい状態になっていたという説。
中国やインドに行ってみると、こうした国々と日本の近代の歴史の違いの原因は何なのか疑問を持ちます。上記の説でしっくり来るまではいきませんが、初回からなかなかおもしろいテーマできますね。
毎週、三連休だと勉強にも時間がとれるのですが。
このところばたばたしていましたが、また週末は勉強する生活に。
今学期は、「日本近現代史」、「日本政治外交史」、「北東アジアの歴史と朝鮮半島」の3科目。
前学期に大変でもうやめようと思ったのに、また歴史ばかりになってしまいました。
でも、日本史は古代からやってきて、世界史も地中海、中央アジア、中国と来て朝鮮半島まで来ました。
「日本近現代史」の最初はペリー来航の話で、日本は欧米列強に植民地化される危機にあったのではないかという見方に対して、2つの点から疑義を唱えている。
1つは欧米列強にとっては生産力に見合った市場や通商が目的であって、日本を植民地化することが目的ではないということ。日本の開港は、直前にカリフォルニアを手中にしたアメリカからアジアへの太平洋航路という世界をつなぐ最後の環の完成に意味があったという説。
もう1つは、不平等とはいえ条約を結ぶことによって、主権国家として認たことになるので、植民地化を容易にしにくい状態になっていたという説。
中国やインドに行ってみると、こうした国々と日本の近代の歴史の違いの原因は何なのか疑問を持ちます。上記の説でしっくり来るまではいきませんが、初回からなかなかおもしろいテーマできますね。
毎週、三連休だと勉強にも時間がとれるのですが。
北京旅行(ダイジェスト) [旅・出張]
ちょっと前になってしまいましたが、9月の連休を利用して、北京に行ってきました。
放送大学で中国の歴史を勉強していて、中国と言っても地方によって違いがあることを学び、行ってみたいと思っていました。マイレージで行ったので、ずいぶん前に予約していたものの、行く段階になったら仕事が忙しくなってきて、えらく大変でした。
着いた日の夜も仕事していましたが、翌日はまず万里の長城へ。
しかし、疲れが残っていてバスで爆睡してしまい、通り過ぎて延慶という街に着いてしまい、そこから戻ったのであまり時間がなく、駆け足で見学。想像以上に傾斜がきつく、それだけで脚ががくがくになってしまった。

その次の日はまず天安門広場。いろいろな意味で緊張する場所ですが、中国人にとっては単なる観光地のようで、観光客が記念撮影しまくっています。

そこから北へ進むと故宮博物館、つまり紫禁城。
建物は大きいけど、同じような建物がたくさん並んでいる。

イスタンブールの宮殿でも感じたが、表の権威的な建物とは違って、奥の実際に居住していた所って、意外に地味だったりする。

北側の景山公園からは故宮を見下ろすことが出来る。

北京はいろいろ見るところがあって、時間が足りないけど、頤和園も見どころ。故宮のあとに行って時間がなく、ほとんどの建物は閉まっていて入れなかったけど・・・。

昼食抜きだったので、道ばたで売っているトウモロコシはおいしかった。

天壇公園というのも世界遺産。こういうのってどこまでが復元なのか。

あまりに忙しくって、街歩きはできなかったけど、最後に南鑼鼓巷をさっと見学。

北京は、ハルピンと違って、おかしなセンスのファッションの人はいなくて、かなり日本と同じ感じです。
新しい、近代的なビルと、路地裏の庶民的なところが混じっていておもしろいですね。
慌ただしく観光地を回っただけだったので、今度はゆっくり街歩きをしてみたいです。
放送大学で中国の歴史を勉強していて、中国と言っても地方によって違いがあることを学び、行ってみたいと思っていました。マイレージで行ったので、ずいぶん前に予約していたものの、行く段階になったら仕事が忙しくなってきて、えらく大変でした。
着いた日の夜も仕事していましたが、翌日はまず万里の長城へ。
しかし、疲れが残っていてバスで爆睡してしまい、通り過ぎて延慶という街に着いてしまい、そこから戻ったのであまり時間がなく、駆け足で見学。想像以上に傾斜がきつく、それだけで脚ががくがくになってしまった。

その次の日はまず天安門広場。いろいろな意味で緊張する場所ですが、中国人にとっては単なる観光地のようで、観光客が記念撮影しまくっています。

そこから北へ進むと故宮博物館、つまり紫禁城。
建物は大きいけど、同じような建物がたくさん並んでいる。

イスタンブールの宮殿でも感じたが、表の権威的な建物とは違って、奥の実際に居住していた所って、意外に地味だったりする。

北側の景山公園からは故宮を見下ろすことが出来る。

北京はいろいろ見るところがあって、時間が足りないけど、頤和園も見どころ。故宮のあとに行って時間がなく、ほとんどの建物は閉まっていて入れなかったけど・・・。

昼食抜きだったので、道ばたで売っているトウモロコシはおいしかった。

天壇公園というのも世界遺産。こういうのってどこまでが復元なのか。

あまりに忙しくって、街歩きはできなかったけど、最後に南鑼鼓巷をさっと見学。

北京は、ハルピンと違って、おかしなセンスのファッションの人はいなくて、かなり日本と同じ感じです。
新しい、近代的なビルと、路地裏の庶民的なところが混じっていておもしろいですね。
慌ただしく観光地を回っただけだったので、今度はゆっくり街歩きをしてみたいです。
アイスランド旅行(ダイジェスト:食事編) [旅・出張]
夏休みにアイスランド旅行をしてきました。帰りにコペンハーゲンにも寄りました。
たくさん書きたいことはあるのですが、時間がかかりそうなので、まずは食べ物のダイジェストです。
アイスランドに着いた日はそのまま寝てしまったので、翌日の昼食が初めての外での食事。
買ってその場で食べる軽食コーナーで、ハンバーガーと魚のナゲットとミネラルウォーター。
これで約1,200円。いきなり物価高、というか食事高の洗礼。
ちなみにアイスランドではハンバーガーがかなり普及している。マクドナルドがあったりはしないが、普通のカジュアルなレストランでは他のメニューと一緒にハンバーガーがのっている。サンドイッチの位置づけのよう。
食べはしなかったがホットドッグも街頭で売っていたりして、安くすませるならその二つにお世話になることになる。

初めての夕食はカジュアルなメキシコ料理屋で、普通にアイスランド料理。
最初のスープ、地味だが魚のスープで、これがとてもおいしかった。
次のメインはラム。アイスランドで肉と言えば普通はラム。その次に、鶏肉、鯨、牛肉あたりが少数派として登場する。
羊はどこに行ってもいて、人口の2倍いるらしい。
最後のデザートは、スキールと呼ばれるアイスランド風ヨーグルト。ここではブルーベリーのジャムの上に盛られて出されている。これではまった。



西部フィヨルド地方のイーサフィヨルズルに着いて、まずホテルのレストランで食べた昼食。
Sole Fishってカレイかな。スープもおいしかった。


夕食は民家風のレストランで魚。夕食だけどバイキング形式で、次々と料理ができるとみんなで並んで皿に盛って食べる。最初のスープ、なんとカニかまが入っていたけどおいしかった。
メイン?というか料理はお代わりして2皿食べ、自分で盛ったのできれいではないけど、ぷりぷりした鱈とか、カレー風味の白身の魚とか、何種類もあったけどどれもおいしかった・・・が4,000円近く。



次の日は1日バスで出かけていて、昼はパンをかじっただけだったので、また泊まっているホテルで夕食。
豆か何かのスープ。また大好きな鱈。白ワインもお代わり。最後にスキールを頼んだら、とても上品な盛りつけで出てきた。しかし、予算がまた5000円くらい。



次の日はバスで移動で、乗り換えるときにささっと昼食。そうなるとやはりハンバーガーになる。

フーサヴィクで、ホエールウォッチングのあと、Fish Stew。シチューと言っても、魚のミンチをオーブンで焼いたような不思議な食べ物だった。おいしいけど。

アークレイリでの初めての夕食。地元の人で賑わっているレストラン。
やっぱり魚を食べたけど、まあ、普通だったかな。


翌日の夕食はちょっと展望の良いレストラン。
最初のトマトスープもおいしかったし、メインの魚介類盛り合わせもおいしかった。鱈、海老、ホタテと山盛りになったもの。カプチーノで締めて、約5,000円。



レイキャビクに戻り、ちょっと良いレストランで。
メインは鱈だけど、ちょっと味付けが濃かった。デザートは例によってスキールを注文したけど、周りの赤いのは何だろう。筋張っていて、食べられそうなものじゃなかった。
物価は首都なので上がって6,000円突破。うーん。



翌日はビストロと称するもう少しカジュアルなレストラン。
サーモンの前菜、ラム、ケーキで・・・やはり5,000円弱。おいしかったけど。
混んでて行列が出来ていた。



その翌日の昼食。あっさりと肉のスープで。味、あっさりしすぎかな。
デザートのスキールはシンプル。砂糖を持ってきて、好みでかけて食べてね、というだけのもの。
ちなみにこのレストランにはサメの肉とか牛の頭のゼリーとかハードルが高いものもあった。
それとちなみにウェイトレスはとても美人だった。

アイスランド最後の夕食。
レストランではなく、カフェと呼ばれるもっとカジュアルなカテゴリー。
バカリャオって干鱈だと思うけど、ポルトガルの食べ物じゃないかな?
最初のスープはロブスターのスープ。濃厚な海老の味がたまらなかった・・・。


さて、帰りはデンマークのコペンハーゲンで1泊。
夕方について夕食。
サラダは食べ放題という店だったが、柄にもなく山盛りにして食べてしまった。
これまでの写真を見て気がつくと思うけど、アイスランド、食べ物はおいしいけど野菜はとても貧弱。
その反動でばくばく食べた。
あと、メインは久しぶりに牛肉を食べた。
デザートはデンマークの伝統的なデザートと言うことで、いろいろなベリーを甘く味付けしたものにクリームがのっている。Rødgrødというらしい。これ、最高においしかった!
しかし、ここでも予算6,000円突破。コペンハーゲンも物価が高いことが判明。



帰国前の最後の昼食は魚のフライ。
写真で影になっているけど、海老もてんこ盛り。
メニューを見てもよくわからなかったので、隣のテーブルを指さして、あれと同じのをください、といって注文。

いやあ。
カードの支払が楽しみです。
たくさん書きたいことはあるのですが、時間がかかりそうなので、まずは食べ物のダイジェストです。
アイスランドに着いた日はそのまま寝てしまったので、翌日の昼食が初めての外での食事。
買ってその場で食べる軽食コーナーで、ハンバーガーと魚のナゲットとミネラルウォーター。
これで約1,200円。いきなり物価高、というか食事高の洗礼。
ちなみにアイスランドではハンバーガーがかなり普及している。マクドナルドがあったりはしないが、普通のカジュアルなレストランでは他のメニューと一緒にハンバーガーがのっている。サンドイッチの位置づけのよう。
食べはしなかったがホットドッグも街頭で売っていたりして、安くすませるならその二つにお世話になることになる。

初めての夕食はカジュアルなメキシコ料理屋で、普通にアイスランド料理。
最初のスープ、地味だが魚のスープで、これがとてもおいしかった。
次のメインはラム。アイスランドで肉と言えば普通はラム。その次に、鶏肉、鯨、牛肉あたりが少数派として登場する。
羊はどこに行ってもいて、人口の2倍いるらしい。
最後のデザートは、スキールと呼ばれるアイスランド風ヨーグルト。ここではブルーベリーのジャムの上に盛られて出されている。これではまった。



西部フィヨルド地方のイーサフィヨルズルに着いて、まずホテルのレストランで食べた昼食。
Sole Fishってカレイかな。スープもおいしかった。


夕食は民家風のレストランで魚。夕食だけどバイキング形式で、次々と料理ができるとみんなで並んで皿に盛って食べる。最初のスープ、なんとカニかまが入っていたけどおいしかった。
メイン?というか料理はお代わりして2皿食べ、自分で盛ったのできれいではないけど、ぷりぷりした鱈とか、カレー風味の白身の魚とか、何種類もあったけどどれもおいしかった・・・が4,000円近く。



次の日は1日バスで出かけていて、昼はパンをかじっただけだったので、また泊まっているホテルで夕食。
豆か何かのスープ。また大好きな鱈。白ワインもお代わり。最後にスキールを頼んだら、とても上品な盛りつけで出てきた。しかし、予算がまた5000円くらい。



次の日はバスで移動で、乗り換えるときにささっと昼食。そうなるとやはりハンバーガーになる。

フーサヴィクで、ホエールウォッチングのあと、Fish Stew。シチューと言っても、魚のミンチをオーブンで焼いたような不思議な食べ物だった。おいしいけど。

アークレイリでの初めての夕食。地元の人で賑わっているレストラン。
やっぱり魚を食べたけど、まあ、普通だったかな。


翌日の夕食はちょっと展望の良いレストラン。
最初のトマトスープもおいしかったし、メインの魚介類盛り合わせもおいしかった。鱈、海老、ホタテと山盛りになったもの。カプチーノで締めて、約5,000円。



レイキャビクに戻り、ちょっと良いレストランで。
メインは鱈だけど、ちょっと味付けが濃かった。デザートは例によってスキールを注文したけど、周りの赤いのは何だろう。筋張っていて、食べられそうなものじゃなかった。
物価は首都なので上がって6,000円突破。うーん。



翌日はビストロと称するもう少しカジュアルなレストラン。
サーモンの前菜、ラム、ケーキで・・・やはり5,000円弱。おいしかったけど。
混んでて行列が出来ていた。



その翌日の昼食。あっさりと肉のスープで。味、あっさりしすぎかな。
デザートのスキールはシンプル。砂糖を持ってきて、好みでかけて食べてね、というだけのもの。
ちなみにこのレストランにはサメの肉とか牛の頭のゼリーとかハードルが高いものもあった。
それとちなみにウェイトレスはとても美人だった。

アイスランド最後の夕食。
レストランではなく、カフェと呼ばれるもっとカジュアルなカテゴリー。
バカリャオって干鱈だと思うけど、ポルトガルの食べ物じゃないかな?
最初のスープはロブスターのスープ。濃厚な海老の味がたまらなかった・・・。


さて、帰りはデンマークのコペンハーゲンで1泊。
夕方について夕食。
サラダは食べ放題という店だったが、柄にもなく山盛りにして食べてしまった。
これまでの写真を見て気がつくと思うけど、アイスランド、食べ物はおいしいけど野菜はとても貧弱。
その反動でばくばく食べた。
あと、メインは久しぶりに牛肉を食べた。
デザートはデンマークの伝統的なデザートと言うことで、いろいろなベリーを甘く味付けしたものにクリームがのっている。Rødgrødというらしい。これ、最高においしかった!
しかし、ここでも予算6,000円突破。コペンハーゲンも物価が高いことが判明。



帰国前の最後の昼食は魚のフライ。
写真で影になっているけど、海老もてんこ盛り。
メニューを見てもよくわからなかったので、隣のテーブルを指さして、あれと同じのをください、といって注文。

いやあ。
カードの支払が楽しみです。
平成23年度1学期 [放送大学]
旅行から帰ってきたら、平成23年度1学期の放送大学の結果が出ていました。
日本の中世 B
日本の近世 A
中国社会の歴史的展開 A○
世界の中の日本 A○
西ヨーロッパの教会と修道院建築 合格
日本の戦国時代とは何だったのか 合格
日本の中世ではじめてA以外をとってしまったけど、再試験で自分には難しかったので、単位が取れただけで満足。
世界の中の日本では記述で初めてA○だったし。
入学して5学期目、取得単位42単位、卒業まであと82単位。1/3まで来た。
でも、ちょっときつかったので、次の学期は履修ペースを落とさないと。
日本の中世 B
日本の近世 A
中国社会の歴史的展開 A○
世界の中の日本 A○
西ヨーロッパの教会と修道院建築 合格
日本の戦国時代とは何だったのか 合格
日本の中世ではじめてA以外をとってしまったけど、再試験で自分には難しかったので、単位が取れただけで満足。
世界の中の日本では記述で初めてA○だったし。
入学して5学期目、取得単位42単位、卒業まであと82単位。1/3まで来た。
でも、ちょっときつかったので、次の学期は履修ペースを落とさないと。
日本の近世 [放送大学]
さて、日本の歴史も、日本の古代、日本の中世と履修してきて、日本の近世です。
(日本の中世は再試験になってしまいましたが・・・)
日本史も大嫌いな科目でしたが、こうして勉強し直すと、昔勉強した(させられた)、年号と事件や支配者の名前を覚える、といったものとはかなり違う内容です。
1つは、日本だけではなく、東アジア全体の歴史との関係の中で理解していこうということが強調されていること。
もう1つは、朝廷をどうとらえるか。戦前は皇国史観ということで過度に朝廷を重視し、戦後はその反動で逆に触れましたが、できるだけ中立的に朝廷と武家政権の関係を捉えていこうということになっているようです。
あとは、単純に支配者や政権が変わったと言うことではなく、村落や都市といった地域社会がどのように変化していったのかということにも重点が置かれています。
この「日本の近世」も時間の経過を辿っていく形式ではなく、近世という一定の期間について、支配構造、朝廷との関係、村落や都市の構造、海運という流通を論じる形式になっています。
まず、「近世」とは何かということですが、始まりは議論があるものの、おおむね安土桃山時代から江戸時代。
「近世」と「近代」の区切りはわかりやすいですが、「中世」と「近世」の違いもあるということ。
戦国時代が終わって天下が統一された時代と言うことになりますが、中国でも統一国家の清朝が成立していた時期とほぼ重なっていて、共通点があるところがおもしろいところです。鎖国のような政策をとりながらも、ヨーロッパが世界に進出してきた時代です。
近世の始まりというと「太閤検地」が重要と言うことらしい。昔勉強したときは数ある事件の1つに過ぎないと思いましたが。
中世から惣村という共同体が地域に構成されてきますが、検地によって村請制が明確になり、行政単位としての村に再構成されます。惣村が複数の村に分かれたりと言うこともあったようです。
さらに、年貢を納めて自立経営を行う百姓という身分が明確になり、武士という身分とも区別され、農村で生産以外の業に従事する身分とも分離されます。
次に、全体について見ると、寺社権力も完全に武士による政権の支配下に入ります。信長の比叡山焼き討ちや一向宗との争いも、この流れの中でとらえることも出来ます。
朝廷も、武家政権による統治の中に完全に組み入れられ、官位制度の一機能も持つ一領主として位置づけられます。この朝廷と幕府の関係というのが政治的にも色々議論となるところですが、この科目では、武家政権というスポンサーによって朝廷は再興されて存続したのであり、武家政権が朝廷を圧迫していたという指摘はあたらないという整理になっています。
あと、おもしろいのは海運の話で、近世後半には蝦夷と近畿を結ぶ北前船、近畿と江戸を結ぶ尾州廻船、江戸と蝦夷を結ぶ奥筋廻船という3系統の海運が発達しました。それぞれの結節点は、函館、神戸、大阪、東京といったその後の港町を生むことになります。また、これらのメイン航路は寄港地が決まっていたようで、その寄港地の間は地域の海運が発達し、ハブ&スポークを形成していたようです。
こうした海運が各地の生産物を日本全国に流通させ、和食というのものを発展させることになりました。蝦夷から運ばれる魚肥が全国の農業生産に活用され、奥州の大豆は伊勢湾で味噌や醤油となってまた全国に流通していました。
海外旅行をして地元の料理を食べると本当に近所でとれたもので作った料理という感じがしますが、和食は確かに違いますね。昆布で出しを取ったニシンそばが京都の名物というのも、北前船の存在なしにはあり得ない話です。
(日本の中世は再試験になってしまいましたが・・・)
日本史も大嫌いな科目でしたが、こうして勉強し直すと、昔勉強した(させられた)、年号と事件や支配者の名前を覚える、といったものとはかなり違う内容です。
1つは、日本だけではなく、東アジア全体の歴史との関係の中で理解していこうということが強調されていること。
もう1つは、朝廷をどうとらえるか。戦前は皇国史観ということで過度に朝廷を重視し、戦後はその反動で逆に触れましたが、できるだけ中立的に朝廷と武家政権の関係を捉えていこうということになっているようです。
あとは、単純に支配者や政権が変わったと言うことではなく、村落や都市といった地域社会がどのように変化していったのかということにも重点が置かれています。
この「日本の近世」も時間の経過を辿っていく形式ではなく、近世という一定の期間について、支配構造、朝廷との関係、村落や都市の構造、海運という流通を論じる形式になっています。
まず、「近世」とは何かということですが、始まりは議論があるものの、おおむね安土桃山時代から江戸時代。
「近世」と「近代」の区切りはわかりやすいですが、「中世」と「近世」の違いもあるということ。
戦国時代が終わって天下が統一された時代と言うことになりますが、中国でも統一国家の清朝が成立していた時期とほぼ重なっていて、共通点があるところがおもしろいところです。鎖国のような政策をとりながらも、ヨーロッパが世界に進出してきた時代です。
近世の始まりというと「太閤検地」が重要と言うことらしい。昔勉強したときは数ある事件の1つに過ぎないと思いましたが。
中世から惣村という共同体が地域に構成されてきますが、検地によって村請制が明確になり、行政単位としての村に再構成されます。惣村が複数の村に分かれたりと言うこともあったようです。
さらに、年貢を納めて自立経営を行う百姓という身分が明確になり、武士という身分とも区別され、農村で生産以外の業に従事する身分とも分離されます。
次に、全体について見ると、寺社権力も完全に武士による政権の支配下に入ります。信長の比叡山焼き討ちや一向宗との争いも、この流れの中でとらえることも出来ます。
朝廷も、武家政権による統治の中に完全に組み入れられ、官位制度の一機能も持つ一領主として位置づけられます。この朝廷と幕府の関係というのが政治的にも色々議論となるところですが、この科目では、武家政権というスポンサーによって朝廷は再興されて存続したのであり、武家政権が朝廷を圧迫していたという指摘はあたらないという整理になっています。
あと、おもしろいのは海運の話で、近世後半には蝦夷と近畿を結ぶ北前船、近畿と江戸を結ぶ尾州廻船、江戸と蝦夷を結ぶ奥筋廻船という3系統の海運が発達しました。それぞれの結節点は、函館、神戸、大阪、東京といったその後の港町を生むことになります。また、これらのメイン航路は寄港地が決まっていたようで、その寄港地の間は地域の海運が発達し、ハブ&スポークを形成していたようです。
こうした海運が各地の生産物を日本全国に流通させ、和食というのものを発展させることになりました。蝦夷から運ばれる魚肥が全国の農業生産に活用され、奥州の大豆は伊勢湾で味噌や醤油となってまた全国に流通していました。
海外旅行をして地元の料理を食べると本当に近所でとれたもので作った料理という感じがしますが、和食は確かに違いますね。昆布で出しを取ったニシンそばが京都の名物というのも、北前船の存在なしにはあり得ない話です。
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